[QT一言アドバイス] 2020年5月27日(水)

申命記 24:14〜22
「神の思いを抱く人は弱者の立場を思いやります」

ーみことばの黙想ー
貧しさのある共同体の中で、どう生きるべきかが規定されている聖書箇所です。

14〜18節
本来、神様だけを頼り、神様が適切に十分に与えてくれるもので生活をしていれば、貧しさによって苦しむことはないでしょう。荒野で、天から与えられるマナを皆が食べ、移動生活をして、神だけに頼っていたイスラエルの民には貧富の差が生じにくかったと思います。ただし、これからカナンの地で収穫によって暮らしていく事にな利、人の手が入りだすと残念ながら、貧富の差が生じてくるからこそ、このような規定がなされたのでしょう。私たちの罪ある世においては残念ながら、貧富の差が生じてしまうのが現実のようです。
ですが、霊的な汚れではなく、単なる貧しさで神の民が損なわれてはいけません。
その日に切実な必要がある従業員には賃金の支払いを遅らせてはいけません。規則だからと言うよりも、神が大切にされる人のいのちに関わることだからです。貧しさの中にある人に対しては、払うべき責務があることは適切に払わなければなりません。
家族の貧しさ、借金のために本人ではなく、家族が損なわれてはいけません。“罪過のため”という表現の中には、単に罪を犯したということに加え、賠償的な意味合いが含まれます。つまり、神の民の名前が1人の罪とその賠償によって損なわれてはいけないということです。
社会的に弱い立場の人は、助けるべきであって、そこからお金を取ってはいけません。
これらの理由が、実は自分たちもエジプトでは奴隷だったのに、神に救い出されたからです。

19〜22節
収穫は全部を自分のものとしないで、あえて、収穫の一部を貧しい人たちのために残しておかなければなりませんでした。
現代はあまりにも効率化が進んでしまいました。余ることは全て無駄とし、余っても不正を防ぐために商品をあえて廃棄してしまうこともあります。場所が変われば、飢えている人がいるのがわかっていてもです。効率化ということで、理解はできますが、それが神のみこころに適っているかは別問題です。人間の頭で効率的だと考えることは、神の霊的な知恵の中では、非効率であることも多いはずです。
これらのことをするのは、イスラエルの民がこれから富と食べ物を豊富に得ても、自分たちが奴隷で助け出されたことを忘れないためです。
神には何の責任もないのですが、神様ご自身が助けてくださることにより、恵みを受け、神の愛を感じたのがイスラエルの民です。人は恵みを受けたときに愛を感じるようです。だから、私たちも神を覚え、恵みを与え、神の愛が現れるようにしましょう。
主から自分たちへ多くの恵みが注がれていることを忘れずに、貧しさのために神の民が損なわれることのないようにしましょう。

ーみことばの適用ー
与えられた収入から、神を覚え、捧げ物と人々と分かち合う分を備えて、必要に応じて分かち合います。

ー今日の祈りー
貧しさの中でも支え合える共同体であるように、また、極度の貧しさが生じないようにさせてください。