ヨハネの福音書19:28〜37
「主が全うされた使命、聖書の成就」
ーみことばの黙想ー
イエス・キリストが十字架上で死なれた事を記録する聖書箇所です。イエスが十字架で死なれたのは自分の罪のためだという事、また、自分の罪のための犠牲の代価はすでに支払われている事を黙想しながら、主の恵みを分かち合っていきます。
28〜30節
イエスがされた事は、それまで、語られてきたみことばの深く関係しています。イエスは十字架上でイエスしかわからない事ですが、すべての事が完了した事を感じられました。酸いぶどう酒とは、ぶどう酒がさらに発酵したワインビネガーだとか、痛み止めを伴った酒で痛みを緩和させて苦しみを長くするものだとかいろいろ言われます。いづれにせよ、苦しみを長引かせるものです。すべての苦しみを受け、なすべき事をなされたので、完了したと宣言されます。
覚えておきたい事は、この時点で、今を生きる自分の罪も時空を超えてすでに解決されている事です。ですから、私たちはイエスを信じ受け入れる事だけで罪許されているのです。罪の許しを感じるものでありたいと願います。
31〜37節
イエスの十字架刑は安息日(土曜日)の直前に行われました。つまり、金曜日です。ユダヤでは日没が日の区切りになっていますから、日没までに死体が晒されている事はよく無い事でした。これは、人々にとって無理やりに進めた事だという一方、主のご計画の中で進んだ事だとも言えます。
足を折るのは、十字架刑の死因は、失血か脱水、もしくは窒息ですが、足を折ることによって、釘で打たれた足で踏ん張ることもできず、自重で首が締るようにして、その死を早める事ができるからです。しかし、イエスはすでに死んでいたので、足を折る必要はありませんでした。しかし、イエスの死を確かなものとするために脇腹を槍で刺されます。考えてみると、イエスの死は明らかでしたので、この措置をする必要は無いようにも考えられますが、行われました。結果的には、これも、聖書のみことば通りになりました。みことば通りになる事は、主を信じていないものの手を通しても、成し遂げられます。
確かな事は、みことば通りにイエスが十字架で死んだ事を何度も確認されている事です。仮死状態や蘇生可能な状況では絶対にありません。イエスは私たちの身代わりのためにすべての苦しみを受けて死なれた事を軽く見ないようにしましょう。
ーみことばの適用ー
イエス様が十字架で死なれたのは、私の罪の身代わりとなり、私が生きるためです。主によって生かされた私の命にはそれだけの価値があります。みことばが成就したように、私の人生にもその価値に従って、みことばが成就するように主に従っていきます。
ー今日の祈りー
私たちが救われたのは決してタダで受けたのではなく、大きな犠牲、十字架がある事を忘れずに、十字架の犠牲に見合う人生を歩ませてください。私の人生を通しても、イエスの十字架を表す人とさせてください。