マタイの福音書27:45〜56
「死をもっていのちを与えられた神の御子」
ーみことばの黙想ー
今日は受難日です。イエス・キリストの十字架を黙想し、神様の前に自分の罪の深さを悔い改めるとともに、イエスの愛に感謝する時間を持ちたちとねがいます。
45〜50節
イエス・キリストの十字架上での死はすべての世界に影響を与えるものでした。真昼の12時から午後3時に至るまでの暗闇は日食などだけでは説明がつきません。たとえ、単なる自然現象が重なったとしても、それは、普通ありえない確率になるでしょう。ですから、神様の業を認めざるを得ません。物理的な意味に止まらない、ひかりとしてのイエスが罪を背負うために取り去られる事を表しています。
イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言っています。この叫びは本来、私たちが叫ぶことになる言葉のはずでしたが、イエスが身代わりになってくださいました。また、これは詩篇22篇の引用として語られることもあります。その死の後半には復活の希望が記されていることから、それも含んだ告白だという解釈もなされます。そして、何よりも大きなことは、この告白があるからこそ、イエスが本当に罪を背負われたという苦しみを味わったことがわかります。イエスの十字架は茶番ではなく、本当に罪を背負われ、離れることないはずの神様が引き裂かれる苦しみを味わったということです。
吸いぶどう酒は基本的には、イエスを延命させて、苦しみを増させる物だと理解すれば良いでしょう。また、これもみことば の成就です。人はとことん罪深いものだと感じます。そして、人ごとではなく、イエスを十字架に欠けているのは私自身の罪です。
51〜56節
イエスが死なれると、様々な特別な出来事が起こりました。まず、神殿の幕が上から下まで真っ二つに避けました。聖さと汚れ(罪)を隔てた象徴的なものが破棄されることにより、罪が根本的に世から取りされた事を意味します。そして、神が神殿をもはや否定され、主によって礼拝する事を意味します。
さらに、地震があり、岩が裂けます。これまでの秩序が揺り動かされ、壊されたようです。そして、驚くべきことに、墓から死んだ聖なる人々が生き返り、エルサレムのまちで多くの人に会いました。イエスの死を通して命を得るものが多くいたという事です。これらのことがあまりのことなので、ローマの百人隊長が、「この方は本当に神の子であった」と告白しています。イエスの十字架の死は、全く信仰のない人にも、イエスの神性を認めざるを得なくさせるのに十分なインパクトがありました。
多くの人がイエスの十字架を目撃し、その影響を否定できませんでした。イエスの十字架の犠牲は、象徴的な例え話ではなく、恐ろしいまでの現実です。イエスを十字架を現実として目の前におき、生きる私たちとなりたいと思います。
ーみことばの適用ー
今日、私が生きているのは、主イエスの十字架の犠牲、神様の忍耐と愛の上に成り立っている事を忘れません。今日1日、悔い改めと主への感謝を具体的にします。
ー今日の祈りー
いつもイエスから目を離さず、主の恵みを忘れないように、させてください。