申命記 9:9~21
「契約を破った民、契約を回復する指導者」
ーみことばの黙想ー
神様の約束が与えられたとき、民は神に背きますが、モーセは民のためにとりなし、神様は聞き入れます。自分たちの罪深さ、すべきこと、そして、神様の愛と忍耐について分かち合います。
9〜15節
モーセが神の約束を山で受けたときは、80歳を超えた老齢でした。しかし、彼には、神の約束を集中せずにはおれず、40日間の断食というものになりました。それでも、彼は元気です。人はパンだけで生きるのではない。このことが示されたように思います。
モーセにとっては、40日間は短く感じたかもしれません。一方、民に取っては、長く感じたようです。モーセが帰ってくるのを待ちきれず、金の子牛の偶像を作ってしまいます。これは、エジプトの偶像に関係すると考えて良いでしょう。彼らにとっては、目に見える安心と、従うのではなく、自分たちの思い通りになる信仰対象が欲しかったのでしょう。考えてみると、偶像礼拝の本質は、自己中心です。
もう一つ、注目したいことは、神様は民がそむいていることを知りながらも、モーセに約束を与え、しかも、すぐには滅ぼされなかったことです。神様は、悪を見過ごされません。必ず、裁かれます。しかし、悔い改めの機会を与えてくださいます。これは、神様は基本的に積極的に裁こうとはされておらず、救おうとされているからです。これを実行するために、どれほどの忍耐が必要かを考えると、神様の愛に感謝せざるを得なくなります。
16〜21節
モーセは、民の偶像礼拝を目にして、せっかく与えられた石の板を砕いて、もう一度、とりなしを祈りを捧げました。そして、偶像を取り除いています。
このことは、後のイエスキリストに関連付けて黙想すると、神のご計画が見えてきます。神様がどんなに正しい約束を見せても、民は守ることはできない。神の正しさを示す約束は、民の罪をあらわにすることはできても、救われるものは祭司を含め誰もいない。そこで、民が救われるためには、正しさの約束が破棄される。そして、神に対して、罪を贖いをとりなす仲介者が必要となり、この仲介者によって罪が取り除かれる。
真の仲介者はモーセではなく、イエス・キリスト、モーセが怒りながら石の板が砕くのは、律法の破棄とイエス・キリストの十字架で神の怒りを受けられたことをさし、偶像が取り除けられたのは、罪が取り去られたことを意味します。旧約聖書がイエスにつながる準備だということがわかると、聖書理解が深まり、今日の信仰生活も豊かになります。
もう一つ、黙想したいことは、クリスチャンとして、悪に接する時、どうするべきか? イエスがされたことを考えると、悪に対して怒りつつも、神に対して、苦しみながらとりなしの祈りをすることです。また、悪自体も取り除きます。
ーみことばの適用ー
自分勝手に生きるのではなく、神様のみことば を中心に生き方を考えます。また、今日、みことば から考えて、怒りを感じるようなことがあれば、むしろ、とりなしの祈りをします。
ー今日の祈りー
神様、罪が多い私たちですら救おうと愛と忍耐をもって接してくださり、ありがとうございます。あなたを知らずに、悪を悪とも思わず、自分勝手に生きるしかない人々のために、祈り、主の愛を伝えるものとさせてください。