申命記 12:1〜7
「偶像のある場所を破壊して、主を礼拝しましょう」
ーみことばの黙想ー
今日の箇所は、礼拝について記されています。偶像ではなく、神様だけを神様が望まれる形で礼拝をすべきです。礼拝についての恵みを分かち合います。
1〜3節
礼拝は、『生きるすべての日々』(1節)行うべきものです。そもそも、人は神を礼拝するために造られています。そして、天国においても永遠に主を礼拝します。
私たちは、礼拝を日曜礼拝だけではありません。私達の人生そのものが礼拝です。礼拝を私達の生活中心に下げるのではなく、私達の生活を礼拝として霊的に引き上げていく物です。
さて、礼拝で、最も重要なことは、誰を見上げているかということです。
聖書は、偶像を徹底的に取り除くことを指示しています。偶像も持ちながら、神をも礼拝することには、主は激しい怒りをもっておられることを覚えなければなりません。
一方で、私たちには問題があります。いつも自分を中心に礼拝を考えることです。日本に住んでいるから仕方ない、社会に置いての文化だから仕方ない。しかし、それは、自分中心的な礼拝の考え方です。神様はそれを望まれてはいません。神を中心として礼拝は、偶像礼拝から離れなければ捧げることができません。
私たちは、主の日に言い訳をしないように、日々偶像を取り除く戦いがあります。そもそも、人間の罪の歴史上、何の妨げもなく、神だけを信じられる環境などありません。主だけを礼拝するかは、環境ではなく、結局は、自分の信仰による事です。今日の信仰生活を見直しましょう。
4〜7節
私たちは、偶像礼拝するように、礼拝してはいけません。
偶像礼拝の本質は、聖書の神以外を拝む事ですが、無神論者(唯物論者、自分もしくは人が神という宗教)も含め、その根底には自分中心、人間中心があります。神のことばではなく、自分が信じたいことばを信じます。
礼拝はこのように捧げてはいけません。礼拝は神様中心に捧げられるべきです。
礼拝はどこでも捧げることができますが、自分の楽なところで捧げるのではなく、神様が望まれる場所で捧げるます。
ささげ物はしても、しなくても良い物ではなくて、本質的には捧げるもののない礼拝はあり得ません。なぜなら、主がそれを望まれるからです。ささげ物については明日以降もみことば が続きます。覚えておきたいのは、ささげ物を自分の物から捧げるという感覚を変えましょう。すべてのものは主のものです。それを一時的に管理させてくださったもの喜んでお返しするという感覚を持ちましょう。捧げる時には、礼拝する心が大切です。世界で初めての殺人も間違ったささげ物を捧げたことがきっかけです(カインとアベル)。初代教会で神が命を取られた夫婦は間違ったささげ物をしたからです(アナニヤとサッピラ)。
最後に礼拝は、祝福です。主を喜ぶこと、また、主の与えてくださったすべてのもの、ことを喜ぶ祝典です。ですから、礼拝を捧げる私たちにも喜びが溢れ、楽しいものです。
ーみことばの適用ー
毎日を主にささげる思いで、生活します。日曜礼拝についても、主を喜ぶことを覚えます。
ー今日の祈りー
自分の思い通りではなく、主の喜ばれる歩みをすることができるように助けてください。