申命記 18:1〜14
「献身した働き人を助け、忌み嫌うべき者を退けましょう」
ーみことばの黙想ー
幕屋、神殿、礼拝、祭儀など神に仕えるために選ばれたレビ部族についての教えが書かれています。主に奉仕することを黙想し、今日において、どのように神に仕えていくべきかを分かち合います。
1〜8節
レビ族は自分の領地は与えられることがなく、その代わり、主への捧げ物の中で性格していくことになります。注意点としては、その与えられた物が、自分に割り当てられた物だから、その割り当てられたものから、神に捧げます。たとえ、レビ部族でも、捧げ物の意味合いは基本的に他の部族と同じです。レビ部族の相続地は土地ではなく、神ご自身です。土地を管理することから解放されているので、主の働きに従事することができます。
これら、主に捧げられた物が与えられるのは、主の御名によって奉仕するためです(5節)。また、主のために奉仕をする者は神によって選ばれています。そして、管理すべき土地がないことから、彼らは、特定の場所にずっと縛られることなく、主が示されるなら、どこにでも行け、そこで、主に仕えることができます。ただし、どこにでも自由に行くと言うよりは、主が選ばれる場所に行くという感覚で、自分勝手に動くのではなく、神のみこころによって動くということです。
さて、現代において、レビ部族のような役割を果たすのは誰でしょうか? もちろん教会の牧師や伝道師、宣教師といった方々はそういうイメージがあります。しかし、それ以上に広く、イエスを信じた人がそうだとも言えます。
イエスを信じた人がイエスを礼拝することを伝えることができます。クリスチャンにとって、最高の相続は、神ご自身とともにいることです。それは、この世の富ではありません。この世の富は一時的ですが、神がくださる恵みは永遠です。ちなみに、神はこの世においても必要を満たしてくださると思います。それ以上に、神とともにいることには価値があります。また、私たちは主が示された場所に出て行って、主を礼拝できるようにします。
今日、主が導かれる場所が、職場、家庭、宣教地、友人宅などいずれであれ、主への礼拝が回復していくことのために、仕えていくべきです。
9〜14節
神に対して、人々の心を向けるべき者が、偶像礼拝や主が霊的に嫌われることをしてはいけません。なぜなら、それを祭儀を行う者がしていれば、人々の心が、神とは別の何かに向いてしまうからです。
明らかな偶像礼拝であっても、それを断ち切るにはそれなりの霊的な分別力と覚悟が必要となるでしょう。しかし、現代社会においては、主が忌み嫌う習慣が何であるのかが分かりにくい時もあります。基本的に、みことばにではく、他のことばに左右されて生きてはいけません。世には様々な言葉が溢れていますが、主のみこころにか合うものかどうかをよく分別し、主のみこころに沿わない物を、知恵を持って取り除きましょう。
ーみことばの適用ー
世が不安定な時、多くの人が世の言葉で不安になり、人を傷つけてしまいます。主の民はみことばと神の愛で、不安でなく平安を、むさぼりではなく仕える心を分かち合い、実践します。
ー今日の祈りー
今日、私の生き方さえも用いて、少しでも、神様に心を向ける方が起こりますように。