申命記 22:13〜30
「きよい共同体のための神の命令」
ーみことばの黙想ー
結婚および性的な関係のきよさを保つ規定が記されています。結婚や性的関係は主に従い、きよさを保てば、何の問題もなく、優れた祝福でしかありません。しかし、主の御心から外れると驚くほどに人格が傷つき辛く暗いものになってしまいます。また、祝福が大きいだけに誘惑も多いと言わざるを得ません。普段の男女関係が主の前にきよさを保つ重要性を分かち合います。
13〜21節
聖書的には性交渉は結婚を意味します。では、婚約をしていれば、自由だと思う人もいるかもしれませんが、聖書には結婚の時に、疑いをかけられた時に純潔を証明しなければいけませんでした。そもそも、この考え自体が神の命令の真意に反しています。神を第一に考えるべきです。
結婚は人の感情や生活が不可欠ですが、それ以上に神聖な物だと言うことを理解する必要があります。夫に一人の妻を与えたのは神です。結婚は人が作り上げた社会制度ではなく、神様が定めた物で、罪ある前からある秩序です。ですから、私たちはこれをきよく保つべき使命があります。
しかし、罪ある世になってしまった今は、何も考えなくても、容易に誘惑にかられるようになってしまいました。その世で、神の栄光を表すためには、世の罪を前提とした価値観ではなく、神の価値観で生活することが大切です。そして、当時は神の選ばれた民が誰の子かわからなくなってはいけなかったのです。
結婚の順序と性的な祝福をきよさの中で用いれば、それは祝福以外の何者でもありませんが、きよさを失えば、罪と汚れにまみれた暗いものとなります。
22〜30節
性的な関係は結婚しなければ、自由だというわけではありません。神の民は結婚せずとも神の民ですから、性的な面においてもきよさを保つ必要があります。特に結婚を意図的に汚した者は死刑、性関係を強制された者にはこのことに関する罪はありません。
さて、全体的に女性に不利な印象を否めません。しかし、当時はこれでも、遥かに人道的であり、女性の生活が守られるようなものと考える必要があります。そもそも、この問題は男女ともに性的なきよさを保つことが重要です。また、女性の権利が見直されることはしかるべきだと思います。しかし、それが罪を自由に犯せるようになる権利だと何の意味もないのです。
最後に、ここで、純潔を汚した者は死刑でしたが、現在はこうなってはいません。では、これは古びたことばでしょうか? いいえ。神様は変わらないお方です。根本的に結婚を汚せば霊的に死んでいくことは避けられません。しかし、イエス・キリストによってすでに完全なきよさがあらわされたので、裁きではなく、悔い改めに向かいましょう。
悔い改めれば、赦されます。だから、問題が起きた時に裁くのではなく、悔い改めに導きましょう。ただし、赦されるから自由だと自分の罪を軽く見積もる者はそもそも、悔い改めてはいないので、霊的な裁きは免れ得ないことを覚えましょう。
ーみことばの適用ー
世の中がいかに性的な自由に語っても、神の言葉に目を向け、誘惑に対処します。また、神の観点を次世代に伝えます。
ー今日の祈りー
男女関係で苦しみ悩む者が増さないように、また、すでに霊的に苦しむものが悔い改めと赦しを得て、きよさを取り戻すことができるように助けてください。