申命記 27:11〜26
「神のすべてのことばに『アーメン』と言って従いましょう」
ーみことばの黙想ー
申命記はイスラエルの新しい世代に神を信じる大切さと律法を守ることをまとめて教えています。特に律法の教えの一番最後にかかっている場所が今日の箇所です。
民が二つの山に登り、祝福と呪いを確認するために、誓いの告白を求められている場面です。
11〜19節
神は民を二つに分けられました。これは、それぞれの部族がすでに祝福されているのと、呪われていいると短絡的に考えるよりも、それが決定的な差であることを体験的に感じさせるために行われたことであると考えるべきです。
私たちは、祝福と呪いは何かつながっていて、たとえ呪われようなことでも、何とかすれば、祝福に紛れ込めるのではないかと考えてしまいがちです。しかし、はっきりと違う山に登らされることを考えると、祝福と呪いの差は決定的です。私たちは神に忌み嫌われるべきことをすることがどれほどのことなのか、よく知る必要があります。同時にそれを、事前に体験的に知らせてくださる神の哀れみに感謝すべきです。
偶像礼拝、親の軽蔑、主が与えられた地の侵略、障害者をその弱さを通して攻撃すること、社会的な弱者を不当に扱うことへの呪いがあることを誓わされます。
世はすでに罪によって呪われていますが、神の栄光を表すために選ばれたイスラエルの民にとっては、栄光どころか罪を見せてしまうのであるならば、もっとさらに厳しく呪われるということです。呪いが強調されているのは、私たちは自分たちの罪に対しては甘くなりがちです。しかし、罪はそんなに甘くありません。
20〜26節
呪いに関する誓いが続きます。後半は人に隠れた性的な問題、殺人、賄賂の問題についての呪いの誓いが記されています。
性的な問題は、現代の感覚でも、驚くべきほどの乱れがあるように感じます。これを考えると性的な問題は、時代に関係なく、普遍的に乱れているからこそ、こんな規定があったと考えることができます。ちなみに、性的な関係は主の祝福される関係であれば、祝福以外の何者でもありませんが、それを夫婦以外で用いるならば、それは神の権威を汚すようなものです。主はそれを呪われていることを覚えましょう。
殺人と賄賂についても触れられています。これらのことは、私たちの生活の中で生じやすいことだからこそ、警告されていると考えられます。
これらのこれらのことは、私たちの隠れたところで行われることが多いです。主は心を見られます。逆に言うと、私たちの隠れたところにこそ神の教えが必要です。
私たちは、人の目がないところでは、自分をよく見せることは可能ですが、一番重要なことは隠れたところに罪がないことです。隠れたところに罪がなければ、人の目に見えるところにあるところは必然的に良くなります。ところが、私たちがしていることはその逆であることが多いようです。
ーみことばの適用ー
罪の問題は甘くないことを知り、今日、人に知られない所で神の栄光を表します。
ー今日の祈りー
どうぞ、罪の深刻さを忘れないようにさせてください。