申命記2:26〜37
「契約の民を通して悪を滅ぼされる神」
ーみことばの黙想ー
神様の祝福の家系から枝分かれし、住む土地の約束を得ていた民、エドム(エサウの子孫)、モアブ、アンモンの人々とは戦いを避けましたが、アモリ人(都市ヘシュボンの王シホン)とは、戦うように主がイスラエルの民を導かれました。
今日の箇所から、主に従うことの大切さと神様の必ず悪をの話にはされない事を黙想します。
26〜30節
最近の申命記の箇所は、民数記20~22章の話で霊的に重要な事を再確認しています。まず、昨日の聖書箇所で、神が戦えと命じているのに、モーセは友好のことばを送っているのに統一性がありません。また、本文では、エドムやモアブはイスラエルに対し友好的に接し、通過できたように感じますが、実際にはそうではありません。事態の理解のためには民数記を読むべきです。
モーセはエドムに対しても、アモリ人に対しても同じような友好のことばを送っています。実際にはエドムもアモリ人もどちらも敵対行動を起こしています。これに対し、エドムとは衝突を避け、アモリ人とは衝突したというのが現実です。
そこで、モーセが友好のことばの意味合いを考えます。友好のことばを送っても敵対してくる事は予想できた。イスラエルは戦いを望んでいるわけではないが、多くの民は主に従うことはできない(ちなみに、主に従い切る事が難しいのはイスラエルも同様)。結局のところ、戦う理由は主に従わない者に問題があるということになります。
さらに、黙想したいのは、神がアモリ人の心を頑なにされました。その理由は、アモリ人を悪に対して裁きを決定していたからです。これらのことについては昨日のQT一言アドバイスをご覧ください。
31〜37節
イスラエルに対する態度は、実はエドムもモアブもアンモンもアモリもさほど差はありませんでした。しかし、主はアモリを討つようにされました。それは、その当時のアモリ人のイスラエル民族に対する態度が問題であったのではなく、彼らの罪に対して主が裁かれる時がきたという解釈が正しいです。主は許される方であると同時に、神様の時にしたがって正義を持って裁かれる方である事を忘れてはいけません。イスラエルはそのために用いられました。
ーみことば の適用ー
主のさばきは避ける事ができません。また、主は悪をさばかれる方です。それは、今ではなくても、必ず、悪に対して、申し開きをしなければならない時が来る事を覚えます。その上で、示された今という時に、悔い改めをし、悪から離れ、主に従うようにします。
ー今日の祈りー
今日、小さなことでも良いので、悪や罪に従うのではなく、主に従うようにさせてください。