申命記3:23〜29
「拒絶の応答に成熟した反応を示す指導者」
ーみことばの黙想ー
誰よりも神の約束の地に入ることを望み、民を導いてきたモーセは、そこに入ることを願いましたが、許されません。しかし、モーセは神のみこころに従いました。
このところから、主に従う恵みを黙想したいと願います。
23〜26節
モーセはかつて、荒野で民が水がないことに対して不平不満を言ったとき、主から示され、岩に命じれば水が出るように示さらたのですが、2度、岩を打ったことによって、約束の地には入れないことになっていました(民20:2~12)。実は、水の問題はそれ以前にもありました。荒野生活が始まった頃に同じような問題に当たった時、モーセはホレブ山で岩を杖で打つと水が出ると神から言われ、そのようにしています(出17:1〜7)。
この話には当時のモーセには理解することのできない霊的な背景があります。岩とはイエス・キリストのこと、水とはいのちの泉、つまり、罪の赦しにより神の子とされ、永遠のいのちを得ることを示し、岩を打つとは、十字架を意味します。ですから、岩は2度と打っては行けないのです。神様には私たちの想像を超える計画があることを覚えましょう。
さて、話を戻すと、モーセは主に使えるリーダーでありながら、民のあまりの未熟さに怒りを感じ、命じるだけで岩から水が出ると言う神のことばを忘れ従うことができませんでした。岩を2度打ったことも、打つなら一度でもいいのにと考えられることから、彼の心の状況が読み取れます。さらに、岩を2度打ったという行為以上に問題だったのは、彼の心だというわけです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサム16:7)ということでしょう。
神様は、私たちの人間的な願いにNOと言われるとき、私たちは、神様の深いご計画を信頼して従えれば幸いです。
27〜29節
モーセは約束の地に入れないことが再び宣告されます。しかし、そのかわり、その土地を見させ、次期リーダーのヨシュアを励ますように神から示されます。モーセはそれに従いました。
彼は、実際に約束の地に自分の足では入りませんでしたが、信仰と希望によってそこに心で入ったのです。
もう一つ、覚えたいことは、本当に重要なことは、神とともにいることです。モーセは、約束の地には入れませんでしたが、主とともにいます。それは、実際に約束の地に入るよりも、もっと素晴らしいことです。主とともにいるところが最も素晴らしいところです。イエス・キリストを信じれば、天国は私たちのただ中にあるのでしょう。(ルカ17:20〜21)
ーみことば の適用ー
神様に正直な気持ちを祈ります。しかし、示された事が自分の願いと違っても従えるようにみことばをおぼえ、教訓とします。この困難な時代でも、イエスを信じ、砂漠に水が与えられる体験をしていきます。
ー今日の祈りー
神様、自分の問題はイエス様の苦しみに到底及びませんが、イエス様の祈りを手本にします。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)