[QT一言アドバイス] 2020年5月2日(土)

申命記 12:8〜19
「礼拝と日常を考慮した、神の細やかな配慮」

ーみことばの黙想ー
民が守るべき神様との約束について、細かく教えている聖書箇所が続きます。今日の箇所は昨日に引き続き、礼拝についての記述です。

8〜14節
神様は礼拝の回復を求めておられます。神様は、私達の霊的な成熟を求めておられます。どのような礼拝を主は求めておられるでしょうか?それは、自分勝手な礼拝ではなく、主が選ばれた場所で、主が望まれる物を捧げます。
私達の生活そのものが神に栄光を返すという意味で礼拝です。私たちは、好き勝手に生きるのではなく、主のみことば とみこころに従って生きるものとなるべきです。
また、礼拝は、自分たちだけが喜ぶものではなく、当時はまだあった奴隷でさえも喜べるようにしなければなりません。神はすべての人の神ですから、社会的に弱者であろうとも、主の前に喜んで進み出ることを妨害してはいけません。同時に、毎日の生活が礼拝という意味では、どんな人でも、生活の中でも神様を感じるように生きることが礼拝です。
また、レビ人もささげ物を捧げ、礼拝し、主を喜ぶべきです。レビ人は礼拝に仕えるものでしたから、主を礼拝するにあっても、すべき役割が多いです。しかし、いくら役割が多くても、神に集中するよりも、役割に集中してはいけません。また、喜びを失わないようにしなければいけません。一方で、レビ人は礼拝に仕えるものでしたが、礼拝のために、自分たちの所有が制限されていました。ユダの部族のうちで、最も生活が不安定です。固有の財産は、他の部族に比べれば、圧倒的に限られています。ですが、すべての人と喜びを持って礼拝を捧げるようにします。
私たちは自分が快適な礼拝ではなく、すべての人が主の御前で喜べるようにすべきです。

15〜19節
礼拝に関連して、食生活についての教えが書かれています。神様の祝福の中で、肉を食べることもできるが、血は食べてはならず、肉は血抜きしなければなりませんでした。これは、カナンの地で行われていた偶像礼拝に関することを避ける意味と、血はいのちであるという神のみことば を恐れるという意味があります。
また、捧げたものは、生活の場では食べてはいけません。逆に、主が定められた場所で、主が定められた人、つまり、社会的な立場に関係なく食べて、共に喜び楽しまなければいけませんでした。また、レビ人を忘れないように注意しています。
これらは、礼拝を大切にするようにという教えです。毎日ある生活の基本である食生活において、神様を覚えて、礼拝を考えて、捧げる物を捧げる礼拝的生活をしなさいということです。
さて、日本の教会には、霊的な働き人が少なすぎます。これは、日本の教会が置かれている霊的な現実を表しています。新しい霊的に成熟した働き人が起こされるように、祈り、捧げていくべきです。礼拝から離れれば、一見効率よく生きても、霊的にはいのちを失い、滅びてしまいます。

ーみことばの適用ー
今日、私の生活の中で、自分よりも弱い立場の人が喜んで礼拝できるように、できることを探します。

ー今日の祈りー
すべての人が霊的な礼拝を捧げることができるように、今日の食事の仕方一つから礼拝的生活が送れるように助けてください。

[QT묵상 가이드] 2020년5월1일(금)

신명기 12:1~7
“우상의 자리를 허물고 하나님을 예배하십시오”

-말씀 묵상-
오늘 본문 말씀은 예배에 대해 기록하고 있습니다. 우상이 아닌 하나님만을, 하나님이 원하시는 방식으로 예배해야 합니다. 예배에 대한 은혜를 나누고자 합니다.

1~3절
예배는 살아있는 모든 날들에 행해야 하는 것입니다. 원래 사람은 하나님을 예배하기 위해 지음받았습니다. 그리고 천국에서도 영원히 주를 예배하게 됩니다. 예배는 주일 예배만이 아닙니다. 우리 인생 그 자체가 예배입니다. 예배를 우리의 생활을 중심으로 해서 드리지 말고 우리 생활을 예배로서, 영적으로 끌어올려 나아가야 합니다.

또한 예배에서 가장 중요한 것은 ‘누구를 바라보느냐’ 입니다. 성경은 우상을 철저히 제거할 것을 지시합니다. 우상도 우상대로 가지고 있으면서 하나님을 예배하는 것에 하나님이 크게 분노하고 계신다는 것을 기억해야 합니다.

한편, 우리에게는 문제가 있습니다. 언제나 자기 자신을 중심으로 예배를 생각하는 것입니다. ‘일본에 살고 있으니 어쩔 수 없다, 사회적인 문화니까 방법이 없다’…그러나 그것은 예배에 대한 자기중심적인 사고방식입니다. 하나님은 그런 생각을 원하지 않으십니다. 하나님을 중심으로 한 예배는 우상숭배를 떠나지 않으면 드릴 수가 없는 것입니다.

우리는 주일에 변명하지 않도록 매일 우상을 제거하는 싸움을 해야 합니다. 애초에 인간 죄의 역사상, 아무 방해도 없이 하나님만을 믿을 수 있는 환경 같은 건 없습니다. 주님만을 예배할 수 있는 것은 결국 환경이 아닌 자기 믿음에 의한 것입니다. 오늘 나의 믿음 생활을 돌이켜봅시다.

4~7절
우리는 우상숭배를 하듯 예배해서는 안됩니다. 우상숭배의 본질은 성경의 하나님 이외의 것을 섬기는 것인데, 무신론자(유물론자, 자신 또는 타인이 신이라고 하는 종교)를 포함해 그 근저에는 자기중심, 인간중심이 있습니다. 하나님의 말씀이 아니라, 자기가 믿고 싶은 말을 믿습니다. 예배는 이렇게 드려서는 안됩니다. 예배는 하나님 중심으로 드려야만 합니다.

예배는 어디에서나 드릴 수 있지만 내가 편한 곳에서 드리는 것이 아니라 하나님이 원하시는 장소에서 드리는 것입니다. 또한 헌금은 드려도 되고 안드려도 되는 것이 아닙니다. 본질적으로 ‘드리는 것’이 없는 예배는 있을 수 없습니다. 왜냐하면 주께서 바라시기 때문입니다. 헌금(드리는 것)에 대해서는 내일 이후에도 말씀이 이어집니다. 헌금을 내 것에서 드린다는 생각을 바꿔야 합니다. 모든 것은 주의 것입니다. 그것을 일시적으로 관리하도록 하셨고, 기꺼이 돌려드려야 하는 것이라는 생각을 가집시다. 드릴 때에는 예배하는 마음이 중요합니다. 세계 최초의 살인의 계기도 잘못된 제물이었습니다(가인과 아벨). 초대 교회에서 하나님이 생명을 거둬가신 부부는 잘못된 헌금을 했기 때문이었습니다(아나니아와 삽비라).

마지막으로, 예배는 축복입니다. 주를 기뻐하는 것 또 주께서 주신 모든 것과 모든 일을 기뻐하는 축제입니다. 그러므로 예배를 드리는 우리에게도 기쁨이 넘치고 즐거운 것입니다.

-말씀 적용-
매일 매일을 주께 드리는 마음으로 생활하겠습니다. 주일 예배에 있어서도 주를 기뻐하는 것을 기억하겠습니다.

-오늘의 기도-
내 생각대로가 아닌, 주께서 기뻐하시는 걸음걸음이 될 수 있도록 도와주세요.

[QT一言アドバイス] 2020年5月1日(金)

申命記 12:1〜7
「偶像のある場所を破壊して、主を礼拝しましょう」

ーみことばの黙想ー
今日の箇所は、礼拝について記されています。偶像ではなく、神様だけを神様が望まれる形で礼拝をすべきです。礼拝についての恵みを分かち合います。

1〜3節
礼拝は、『生きるすべての日々』(1節)行うべきものです。そもそも、人は神を礼拝するために造られています。そして、天国においても永遠に主を礼拝します。
私たちは、礼拝を日曜礼拝だけではありません。私達の人生そのものが礼拝です。礼拝を私達の生活中心に下げるのではなく、私達の生活を礼拝として霊的に引き上げていく物です。
さて、礼拝で、最も重要なことは、誰を見上げているかということです。
聖書は、偶像を徹底的に取り除くことを指示しています。偶像も持ちながら、神をも礼拝することには、主は激しい怒りをもっておられることを覚えなければなりません。
一方で、私たちには問題があります。いつも自分を中心に礼拝を考えることです。日本に住んでいるから仕方ない、社会に置いての文化だから仕方ない。しかし、それは、自分中心的な礼拝の考え方です。神様はそれを望まれてはいません。神を中心として礼拝は、偶像礼拝から離れなければ捧げることができません。
私たちは、主の日に言い訳をしないように、日々偶像を取り除く戦いがあります。そもそも、人間の罪の歴史上、何の妨げもなく、神だけを信じられる環境などありません。主だけを礼拝するかは、環境ではなく、結局は、自分の信仰による事です。今日の信仰生活を見直しましょう。

4〜7節
私たちは、偶像礼拝するように、礼拝してはいけません。
偶像礼拝の本質は、聖書の神以外を拝む事ですが、無神論者(唯物論者、自分もしくは人が神という宗教)も含め、その根底には自分中心、人間中心があります。神のことばではなく、自分が信じたいことばを信じます。
礼拝はこのように捧げてはいけません。礼拝は神様中心に捧げられるべきです。
礼拝はどこでも捧げることができますが、自分の楽なところで捧げるのではなく、神様が望まれる場所で捧げるます。
ささげ物はしても、しなくても良い物ではなくて、本質的には捧げるもののない礼拝はあり得ません。なぜなら、主がそれを望まれるからです。ささげ物については明日以降もみことば が続きます。覚えておきたいのは、ささげ物を自分の物から捧げるという感覚を変えましょう。すべてのものは主のものです。それを一時的に管理させてくださったもの喜んでお返しするという感覚を持ちましょう。捧げる時には、礼拝する心が大切です。世界で初めての殺人も間違ったささげ物を捧げたことがきっかけです(カインとアベル)。初代教会で神が命を取られた夫婦は間違ったささげ物をしたからです(アナニヤとサッピラ)。
最後に礼拝は、祝福です。主を喜ぶこと、また、主の与えてくださったすべてのもの、ことを喜ぶ祝典です。ですから、礼拝を捧げる私たちにも喜びが溢れ、楽しいものです。

ーみことばの適用ー
毎日を主にささげる思いで、生活します。日曜礼拝についても、主を喜ぶことを覚えます。

ー今日の祈りー
自分の思い通りではなく、主の喜ばれる歩みをすることができるように助けてください。